昭和42年02月11日 朝の御理解
笑い話のような話ですけれども、昨夜、こんなことがあった。皆、月次祭を終わって、もう帰られた後、まあ、福岡の方達が残って、まあ、色々と信心話やら御造営のことについての話を、話し合いていうわけでもないですけれども、やっぱり話し込んでおりましたから、一時、一時も過ぎましたでしょう。で、お茶をあげてから、お茶菓子を何か出して下さいと言うてから、久富先生に、出してもらった。
そしたらもう皆が、そのお茶菓子をほとんど頂き終わった時に、そのお茶菓子にですねちょっとカビが生えとった。はあもうここんとばっかりは、もういつでも同じ生菓子でも美味しか時食べなさりゃ良かばってんから、もういつまっでんもうとにかく、出すのじゃあるからもうかつかつにならなきゃ出しなさらん。もうカビが生えなきゃ出しなさらんという訳でもうその言うわけですね。
だけど久富先生に、ほら見てごらんなさい、あなたが汚のう行くけんでまた新しかと出さにゃんじゃないですかち言うてから、また新しかつを、まあ食べた上にまた出さんなんごたる風なことでございましたけれどもですね。本当にこっちに久富先生が汚のう出られたわけでもなしだけれども、それと同じようなことがです、私どもの日常生活の上にあるような気がいたしますですね。
せっかく出した上にまた出さにゃん。初めから美味しいのを出しとけば、もうそれだけで済むのにです。そしてもうここんとは、いつももういわばお月次祭を通しますから、なるほどお菓子等がコチコチになる。出した上悪う言われて。そしてまた新しかつば出し直さにゃんと言った様な事です。これはもう別に私が汚のう出たわけでもない、久富先生が汚のう出られたわけでもない。
片一方もそれをどうこう言うわけでもないけれども、そういうことが話し合い、言い合える仲ですけれどもです。それと同じようなことがです、私どもの日常生活の上に、あるように思うんです。ちょっと汚い、ちょっと汚いことを思うたばっかりにですね、大きな損をしなければならない。いや、大きな損ぐらいで良いなら良いけれどもですね、もう、それが本当に一つの、よい運命を取り逃がしてしまうと。
言った様な大きな事にまで進展して行くということが、たくさん実はあってはおらんだろうかと。あん時自分がこう美しゅう出てさえおりゃ、問題はあの場で解決しておったものに。もう本当にそういう意味合いでも、限りなく美しゅうならにゃならんということですね。ちょっとばっかり、ちょっとした餌に引っかかる。そして、自分がそのために、その餌に釣り上げられなければならないような結果になってしまう。
自分がそこを謹んでさえおきゃです、そんなことないのに。ちょっと卑しい心、ちょっと汚い心。そういう心をちょっと使うたばっかりに、いわば、取り返しのつかないようなことになったり。初めから、美しゅう行かにゃいけん。あちらも立ち、こちらも立ちと、例えば思うでしょう。また、そういう願いを持つですわね。私は、この、あちらも立ちこちらも立つということはですね。
よっぽどこちらが、美しゅう行きよらなければ、出来ませんことですね。ゆとりがある、こちらに余裕がある。こちらが、ガツガツしておりますとですたい。例えば、金の足りない人に、ちょっと、ほんなら、甘い顔を見せる、金なら金を持って。そすと、もう、それにポッとその、飛びついてしまう。ですから、そういう時にです、本当にこの豊かな心、冷静な心。
昨夜の御理解じゃないけれども、本当にどんな場合でも平生心を持って、それを見たり聞いたりしたら、あっこれには飛びついちゃいかん、これはここではこうあっちゃならないという事が、すぐ分かることなんだけれども、いわゆる心の中にいわゆる我情我欲が渦巻いておる。我情我欲でいわば一杯だもんですから、ちょっとしたそういう餌にでも引っかかってお終いになってしまうようなことがある。
美しゅう行かにゃいけませんですね。そこから、立ち行くところのおかげを頂かにゃいけません。いかにも目先は、損のようですけれども。美しゅうないと、それが次のおかげに続いて行けませんもん。もう一番、極端な例が商売人です。それはなるほどそん時なら結構、楽に10円なら10円儲かられます。けれどもその10円儲かっとったばかりに、そのまま、お得意さんを不意にしてしまうと言う様な事になる。
そん時に一銭引いておけば、二銭引いとけばもう必ずそこのいわば上得意さんになられるものを、ほんのそん時一銭か二銭かの余分に儲けたいという、その気持ちがです、とうとうそのお得意さんを無くしてしまわなければならないような結果になる。もうこの辺が本当に大事なところ。そんためにはです本当に、例えばそれこそお腹が例えば空いておっても、それが欲しかってもそこに私は余裕ゆとりを持った生き方。
ゆとりを持ってそのことに望む。おかげの頂けれるだけのゆとりをです、お互い信心によって頂きたいと思う。これは例えばその事によって上得意にするということは、教祖の神様が仰るように、目先は損のようであるけれども、数を上げて行きゃあ損な方が得だと、こう仰るように。これは、売り買いのことだけではありません。もう日常生活の上にも、それがあるです。
日常生活の上にも、自分のゆとりがないばかりに、ちょっと鼻先の汚のう出たばっかりに、大きな損をせんならん。もう、そういう例はですね、たくさんありますよ、私が知っとる限りでも。私自身でも、それはあります。ちょいと汚い心を起こしたばっかりに、はあ、本当にゆとりのあるおかげを頂きたい。信心によって、本当にいつも平生な心を頂きたい。そこから、おかげの頂けれる道。
二、三日前まあ聞かせて頂いた話なんですけれども。もう本当にその相手が信心相手がっていうか、信心がない人達ですけれどもです。こちらが信心があるもんだから、こちらが綺麗に出て行きよる出とった。所がこちらはぁあっちはもう信心しちゃるけんで、もうあちらは信心しちゃるから、もう我情我欲で言いなさる人達じゃなかと、こう思うたもんじゃからガバッと儲かると思うちから、向こうんとば引っ掛けてきた。
ところがです、もうそれを周囲の者が許さなくなった。周囲の者がそげなこと言うごとあるなら、当たり前の話をしようというごとなった。もうそれこそ先方にとっては大変な損ですね。ほんなもうちょっと汚う行ったもん。片一方がいわゆる甘い顔を見せると、もうそれに増長する。もう汚うする。もうそれこそあちらも立ちこちらも立ちと言う様に、綺麗ないわば話し合いが出けるものがない。
相手がちょっとまあ言うならば、餌を見せられたら餌にガバッと飛びついてきた。あんたには惜しいと思います。これはほんなら信心がないからと言って、信心があってもそうです。私共がちょっと甘い顔をされると、もうそれにガバッと飛びついて行こうとする。ゆとりがないからです。どうでも一つその辺のところを分からせて頂いて、まあ商売人の例で言うならばです他所よりも確かに、一銭または二銭でも安うすりゃ目先はそれだけ、おろ儲かることになるんですけれども。
それがです、もう永久にその人がお得意さんになって下さるようなおかげを、切っ掛けを頂けば有り難いでしょうが。もうそん時にはもう一つも無理することいらん。平気でです、なるほど十銭儲かろうと思えば儲かられるのです。
けれどもがあそこで買うたっちゃ十銭、ここで買うたって十銭ち言うなら、まずそれは、もう決して、それは自分のお得意さんにすることは出けんですよね。信心してです、この辺のところをですね、もう我情我欲が突っ張ったらおかげ頂かれんです。これがましてですね、神様に対する場合なんかはですね、きれいに出らんと本当におかげの受けられるおかげまで受けられません。
汚うなるのですね人間が。もう後先笑い話しのごたる風で済ませますけれども。昔旅をする人がですね、そのまあ夜にこの道を通りよると、山賊が出ると言う様な話を聞いたけれども急な用があって山越ししよった。ところが案の定途中で山賊につかまって、もう丸裸にされようとしておる所に、一人の力の強い人が通り合わせた。そしてその山賊達を追っ払ってしもうてやった。もう本当にあなたのおかげで命が助かった。
もう本当に真っ裸にされるとこじゃった。本当にどうも有り難うございましたと。まあ命の恩人だと言うて喜んだ。でその人が思うた。江戸の方へ着いたらもう帰ったら本当にお礼に出らにゃいかんとこの人のお家に。そしてまああん時に命を助けて貰うたと。身ぐるみ剥がれたと思や、まあ例えば言うならば、もう百円ぐらいのお礼はもう本当にさせて貰うぞとこう思うた。
道中も帰りもうあなたのような強い人と一緒ならいいから、もう、ほんなら、一緒に帰ってくれと言うて、その人と同々で、まあ、江戸まで帰ったというわけなんです。
ところが、その、江戸まで帰る間にです、ほんに、あん時に助けちもらう時には、百円ち思うとったばってん、別にこの人も、わざわざ損しなさった、儲けなさった訳じゃないから。百円なちいっと多過ぎろうけん、五十円ぐらいで良かろうと、途中で思うた。江戸に着く頃には、五十円が三十円になり、三十円が十円になり、江戸に着いてしもうた時にはね、旅は道連れと言うから、別にあの人が、別に元がいっとる訳じゃないとじゃから、というわけで、とうとうお礼にも行かじゃったちゅう話なんです。
もう、本当に、人間の心の中には、そういうような汚い心がいつも渦を巻いとるとです。相手が何とも言わん。神様なんかは、そのことなんかは、全然仰らない。こん奴ばかりはこげなおかげ頂いてち思いなさらん。また、言いもしなさらなん。しなさらんからこそです、しなさらんからこそ、こっちが美しゅうお願いさせて頂くところに、神様のいよいよご信用が頂ける、徳が受けられる。
そこには、いわば、夢にも思わなかったようなおかげに進展して来るのだけれど、それ切りのこと。私共はそういう、私共の心の底にある、そういう汚い心に本気で取り組んで、いつも、ゆとりのある、どういう、これから手の出るような餌を出されても、それに飛び付くようなことのないで済むおかげを頂かせて頂きたい。そこからです、例えば、一銭二銭、損したようなこっじゃない。いついつまでも、その人が私のお得意さんになって下さるというようなです、おかげを頂かせて貰うたら、そういう様な、私はおかげ、そういうような助かりがです。商売人も助かるなら、お客さんも助かって下さる。いわば、あちらも立ち、こちらも立ちというのは、そういうようなことではなかろうかと。
そこに、いわば、汚う出るばっかりに、それは、それ切りのものになって行く。いや、それ切りのものになって行くなら良いけれども、それが、大きな意味で言うとです、致命的なことになるようなことがある。ところが、お互いの心の中には、そういうなものがある。もう、先生、おかげさえ頂きゃ、おかげ頂いたら、こうもします、ああもしますと、心には思いもすりゃ、言いもしとる。それが、おかげを頂くと、段々、心の中にそれが薄うなって来る。ほんな、お小分のことになってしまう。
そして、次にはおかげの頂けないような基を、土台を作ってしまう。自分なそん時、得したように思うけれども、決して得にはならない。人間のその汚さに取り組むていうことは、そういうことである。ですから、もう、ことに望んだ時にです、確かに平生心。ことに望んだ時にです、いよいよ豊かなです、それは離れて見れるだけの、一つ、ゆとりを持たせて頂く信心をさせてもろうて。
ここは、こう行くが本当だと思うたら、それを本気で断行する。そこから、私はおかげの頂けれる道が開けて来ると思うですね。
どうぞ。